1:児玉丹羽氏 - 武蔵七党のうちの一つである児玉氏の出身。
2:一色丹羽氏 - 足利氏の支流の一つである一色氏の出身。
良岑氏を本姓としている。児玉党の末裔とされるが、長秀以前の系譜ははっきりしていない。尾張守護斯波氏に仕えていたらしい。
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戦国時代
丹羽長秀は織田信長に仕え活躍した。信長が天正10年(1582年)に本能寺の変で明智光秀に殺害されると、羽柴秀吉に付き、共に光秀を討った。その後は50万石の大大名となった。
天正13年(1585年)に長秀が没すると、跡を継いだ丹羽長重は秀吉によって加賀国松任4万石に減封されてしまうが、長重は戦功を挙げて加賀国小松12万石に再び加増された。
江戸時代
関ヶ原の戦いでは長重は西軍に付き、いったん改易となる。だが慶長8年(1603年)に徳川家康より常陸国古渡に1万石の領地を与えられ大名として復帰。その後陸奥国白河藩10万石の藩主となる。
長重の子、丹羽光重は陸奥国二本松藩10万石に転封となり、以後丹羽氏はここに定着する。明治時代の版籍奉還で丹羽長裕は二本松藩知事となった。
一色丹羽氏
発生
九州探題一色範氏の子の一色直氏(一色範光の兄)の末裔。一色氏は範光の系統が四職として重用されたが、直氏の系統は没落し諸国に分家した。そのうちの一つである。直氏の子の一色氏兼を祖とし、氏兼の孫である氏明が尾張国丹羽庄を領し丹羽姓を称したとされる。
戦国時代
丹羽氏勝は尾張守山城主織田信次の家臣であった。信次が甥である織田信長の弟を誤って殺してしまい守山より逃亡した際は、氏勝ら家臣団が守山城に篭もり抗戦した。その後紆余曲折の末に信長に仕える。だが天正8年(1580年)に、氏勝は唐突に信長より追放されてしまう。
江戸時代
氏勝の子、丹羽氏次は織田信雄の家臣時代を経て、最終的には徳川家康に仕える事になる。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは東軍に属し戦功を挙げる。功が認められ、氏次は三河国伊保藩1万石の藩主となった。
寛永15年(1638年)には伊保藩は廃藩となり天領になる。そのため伊保藩から美濃国岩村藩2万石へと転封となり、以後丹羽氏が岩村藩主を務めた。
だが丹羽氏音の時代に家中で派閥騒動が起き、元禄15年(1702年)に越後国高柳藩1万石に減封。氏音の養子、丹羽薫氏は延享3年(1746年)に播磨国三草藩に移る。その後維新まで丹羽氏の統治が続く。明治時代には華族となった。
武蔵七党(むさししちとう)は、平安時代後期から鎌倉時代・室町時代にかけて、武蔵国を中心として下野、上野、相模といった近隣諸国にまで勢力を伸ばしていた同族的武士団の総称である。
横山党、児玉党、猪俣党、村山党、野与党、丹党、西党、綴党、私市党などが知られているが、鎌倉時代末期に成立した『吾妻鏡』には「武蔵七党」との表現がないことから南北朝時代以降の呼び方と考えられており、数え方も文献により異なり一定していない。
武蔵国は駿馬の産地であり、多くの牧が設けられていた。その管理者の中から、多くの中小武士団が生まれた。
武蔵国の中小武士団は、朝廷や軍事貴族、それらと結びつく秩父氏の河越氏や畠山氏など在地の有力武士に動員を掛けられた。保元の乱や平治の乱、治承・寿永の乱(源平合戦)では、多くの坂東武者が活躍した。
各党は婚姻による血族で、社会的・軍事的集団として機能していたといわれる。各領地も離れており、具体的にどの程度の結束力であったかまでは不明である。
鎌倉時代
武蔵武士は御家人として鎌倉幕府を支えた。武蔵武士は、伝統的な豪族層が支配する北関東と異なり、幕府に従順だった。『吾妻鏡』に記載されている武蔵武士は182氏にも及ぶ。『六条八幡宮造営注文』でも、469人中84人と圧倒的に多い。
また日本全国に拡大移住していった。承久の乱・宝治合戦など勲功の恩賞(新補地頭職)や蒙古襲来の警備のため、各氏族の一部は武蔵国にある本領を離れて奥羽や西国、九州に土着した。惣領家と庶子家の何れが移住するかは、各氏族によって異なった。
南北朝時代以降
南北朝時代には武蔵に残った武蔵七党系の中小武士団が結束して、国人一揆を結成した。『太平記』では、平一揆や白旗一揆が有名である。
その後、武蔵平一揆の乱で河越氏は没落。国人達は武州南一揆や北一揆などを作り、関東管領上杉氏や後北条氏の下で戦った。
武蔵七党とされる諸党
武蔵七党とされる諸党は以下の通りである。この他に綴党、私市(きさい)党などがあった。
横山党
武蔵国多摩郡横山庄(現在の東京都八王子市付近に当たる)を中心に、大里郡(現埼玉県北部の熊谷市や深谷市とその周辺地域)および比企郡から橘樹郡(現在の神奈川県川崎市の市域に相当)にかけての武蔵国、さらには相模国高座郡(神奈川県の相模川左岸流域一帯)にまで勢力があった武士団。一族は横山氏を中心に海老名氏、愛甲氏、大串氏、小俣氏、成田氏、本間氏など。先祖は小野篁と称する。その多くは和田合戦で滅亡するが一部の武士は存続する。 本間氏などは佐渡の地頭として繁栄した。
猪俣党
武蔵国那珂郡、現在の埼玉県児玉郡美里町の猪俣館を中心に勢力のあった武士団で、横山党の一族。猪俣氏、人見氏、男衾氏、甘糟氏、岡部氏、蓮沼氏、横瀬氏、小前田氏、木部氏など。保元の乱や平治の乱、一ノ谷の戦いで活躍した猪俣小平六範綱と岡部六弥太忠澄が有名。
野与党
武蔵国南埼玉郡・北埼玉郡、現在の騎西町付近の野与庄を中心に勢力のあった武士団で、足立郡、比企郡などに同族がいた。先祖は桓武平氏の平基宗(平忠常の孫)と称する。
村山党
武蔵国多摩郡村山郷、現在の入間川付近に勢力のあった一族で、野与党と同族である。村山氏、金子氏、大井氏、仙波氏など。 先祖は桓武平氏の平基宗(平忠常の孫)と称する。武蔵平一揆により衰退する。
児玉党
武蔵国児玉郡(現在の埼玉県児玉郡)から秩父、大里、入間郡および上野国南部あたりに勢力あった一族。元々の氏は有道氏。児玉氏、庄氏、本庄氏、塩谷氏、小代氏、四方田氏など。
西党
多摩川およびその支流である浅川や秋川流域を地盤とした。「武蔵七党系図」によれば、土着した武蔵国司・日奉宗頼(ひまつり・の・むねより)の子孫が西氏を称し、庶流が土着した地名を苗字としたとされる。一族には、一ノ谷の戦いで熊谷次郎直実と先陣争いをしたことで知られる平山季重を出した平山氏のほか、由井氏、立川氏、小川氏、田村氏、中野氏、稲毛氏、川口氏、上田氏、犬目氏、高橋氏、小宮氏、西宮氏、田口氏、西氏、駄所氏、柚木氏などがいる。
丹党
秩父から飯能にかけて活動。平安時代に関東に下った丹治氏の子孫と称する。丹氏、加治氏、勅使河原氏、阿保氏、大関氏、中山氏など。入間市や飯能市には加治氏に深い関わりを持つ加治神社、加治屋敷(加治丘陵)などの史跡があり、円照寺には鎌倉幕府滅亡をともにしたことを示す板碑が残っている。
数え方
「七党」というものの文献によって構成が変わっている。
『武蔵七党系図』:横山党、猪俣党、野与党、村山党、西党、児玉党、丹党
『書言字考節用集』:丹治党、私市党、児玉党、猪俣党、西野党、横山党、村山党
『武家職号』:丹党、児玉党、猪俣党、私市党、西野党、横山党、綴党